ウクライナ



  1917年、二月革命により帝政が廃止され、臨時政府が成立した後、キエフにはウクライナ中央ラーダという名前の勢力が成立した。(ラーダとは評議会の意味でソビエトと同じ意味。)中央ラーダは、民主的ロシアの中での自治を要求する決議を行っている。しかし、臨時政府は中央ラーダの自治権の要求をほとんどはねつけた。
 さて、この時期キエフには、中央ラーダ・臨時政府派・ボルシェヴィキの3つの勢力が存在していた分けであるが、ロシアで、十一月革命の機運が高まると、キエフでも臨時政府派・ボルシェヴィキの対立が激しくなった。中央ラーダはボルシェヴィキに付き、十一月革命後の11月には、共同して臨時政府派を追い出した。追い出し成功後は両者は対立し、中央ラーダが勝利を収め、ウクライナ人民共和国の成立を宣言し、ソビエト・ロシアと絶縁した。このとき初めて、ウクライナはロシアから独立した事になる。厳密にいうと、このときはロシアとの連邦を維持するとしているため、完全な意味での独立ではない。しかし、中央ラーダ派は、ロシアのボルシェヴィキ政権を認めておらず、また、このときロシアにはボルシェヴィキ以外に政権はなかったので、事実上の独立宣言である。
 ところで、この時期、中央ラーダ派がウクライナ全土にわたって政権をとっていたわけではなく、工場労働者の多いの東部の要衝ハリコフなどでは、ボルシェヴィキ派が圧倒的優位にたっていた。中央ラーダ派の独立宣言は、ウクライナ内部のボルシェヴィキとの対立のなかで、ロシアボルシェヴィキのウクライナへの浸透を避けることが目的であった。

 ところで、敗北したウクライナのボルシェヴィキ軍隊は東部の要衝ハリコフに結集し、ソビエト・ロシアの援軍も手伝って、キエフに侵攻、激戦の末1918年初めにはキエフ攻略に成功する。
 西部に逃れたウクライナ中央ラーダは、ドイツと、いわゆる「パン条約」を締結し、ウクライナの莫大な穀物と引き換えに、ドイツの軍事力により、キエフを占領した。(1918年3月。)また、ドイツはウクライナを独立国家として承認した。
 しかし、中央ラーダ政権のもとでは十分な穀物収奪が出来なかったドイツは、ウクライナの少数の地主と結託し、18年4月クーデタによって中央ラーダ政権を打倒、スコロパツキー政権を樹立し、農村からの穀物収奪を強行した。しかしスコロパツキー政権による反動的な土地政策や、ドイツ軍による強引な作物の収奪は、ウクライナ全土の農民の反発を買い、各地で農民蜂起が勃発した。このような状況の中でドイツ軍は甚大な被害を受け、さらにドイツ本国が不安定な社会情勢になったこともあり、1918年秋にウクライナから撤退した。
 ドイツ軍が撤退すると、スコロパツキー政権は崩壊。しかし、ドイツ軍を招きいれた張本人の中央ラーダは、もはや政権維持能力を持たなかった。こうして、19年を通じてウクライナは激しい内戦の舞台となった。ソビエト軍,ペトリューラ主導のディレクトーリア軍 (民族派), N.I.マフノらに率いられる農民軍,A.I.デニキン率いる白衛軍、さらには、ポーランド軍、ルーマニア軍、フランス干渉軍などが入り乱れて戦った。
 1919年2月、ボルシェヴィキはキエフ占領し、ソヴィエト・ウクライナ政権を成立させる。南部ではマフノの農民軍が広大な地域を支配しており、キエフ近郊ではゼリョーヌイ率いる農民反乱が起こった。黒海沿岸のオデッサには、フランスの援助を受けたデニキン将軍による反革命派の「ロシア義勇軍」が上陸。さらに、1920年5月にはポーランドのピウスツキ将軍がキエフを一時占領した。
 やがて、ボルシェヴィキによる「ソヴィエト・ウクライナ政権」が内戦を勝ち抜いて、1923年7月5日、ウクライナはソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に組み込まれることになった。




1)スコロパツキー政権切手
 ウクライナ占領ドイツ軍の策動のもと、農民から作物を広範に収奪する目的で、1918年4月にスコロパツキー政権が誕生する。以下はスコロパツキー政権により発行された切手。(発行は1918年7月。)

  クリックすると画像を拡大します




2)ロシア切手へ加刷
 ロシア切手にウクライナマークを加刷したもので、地域によって、若干、加刷マークの図案が異なる。これらは、1918年から発行される。なお、加刷していないオリジナルのロシア切手は、1918年10月10日以降使用禁止になるが、実際はこの時期の使用例もあり混乱している。


 
 Kievで発行されたもの
 クリックすると画像を拡大します
 


 Kharkovで発行されたもの
 クリックすると画像を拡大します


 Odessaで発行されたもの
 クリックすると画像を拡大します





 

 使用済みは比較的少ない。
 (クリックすると画像を拡大します)




 はがき

 1917_RUSSIA\UKRAINE, postCard[provisorium] to Russia.
 PostCard from Beritchew[Ukraine], dispatch postMark-Beritchew:15.II.18. to Kubryn [Russia],
 Railway ambulance[70] provisory postMark.
 Russian postCard over/print Ukrainian Arms 'trizub'[overprints type:Bezirk Jekaterinoslaw.II]

 (クリックすると画像を拡大します)




3)ペトリューラ主導のディレクトーリア政権発行切手

 ドイツ撤退により、スコロバツキー政権は崩壊。ウクライナは各派乱れての内乱状態に陥る。中央ラーダの流れを汲むペトリューラ主導のディレクトーリア政権が1919年1月に発行した切手。しかし、2月はじめボルシェヴィキはキエフ占領し、ソヴィエト・ウクライナ政権を成立させる。ディレクトーリア政権は200Km南西のヴインニッツアに逃れた。


(クリックすると画像を拡大します)




4)不発行切手
 1920年12月に発行する目的で作られたが、実際は使われなかった。(偽物かもしれない。)

  クリックすると画像を拡大します

  クリックすると画像を拡大します





5)ソビエト共和国
 1919年3月14日、キエフでウクライナソビエト共和国の樹立が宣言され、1920年12月28日ソビエトロシアと統合する。しかし、この内戦などにより、ウクライナは激しい飢餓に見舞われる。以下の切手は、飢餓救済募金の目的で1923年7月に発行された寄付金付き切手。

  クリックすると画像を拡大します



1992年独立後の切手

 1992年、ソ連邦は解体し、各共和国は独立する。独立後に、ウクライナが発行した現在使われている切手である。切手の図案には、かつて中央ラーダ国家が国章として使用した「三叉の鉾」の文様が使用されている。なお、額面数字の変わりに、EやPの文字になっているのは、狂乱インフレのため印刷準備中に郵便料金が変わってしまうので、数字を印刷できなかったためである。






  クリックすると画像を拡大します


他の共和国切手のページへ戻る


切手でみるソビエト連邦の歴史