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間宮林蔵

 樺太と大陸の海峡最狭部に達し、樺太が島であることを確認した松田伝十郎は「樺太は離島なり、大日本国国境と見極めたり」と記している。松田伝十郎の案内によって、間宮林蔵も海峡最狭部に到達した。アイヌが山丹交易による負債で苦労していることを知った松田伝十郎は、アイヌの負債を幕府が肩代わりする実務を行い、さらに山丹交易を改革した。一方、間宮林蔵は樺太探検の翌年、再び樺太にわたり、さらに現地の人の船に便乗して海峡を経て大陸に渡った。
 このように、間宮林蔵は松田伝十郎に遅れて樺太が島であることを確認した人物であったが、上司の松田伝十郎を差し置いて間宮林蔵が幕府へ報告したこともあって、樺太が島であることを確認した人物として間宮林蔵が有名になっている。
 間宮林蔵が海峡を渡ったのは、現地人の船に便乗したものであったが、後年、シーボルトは海峡最狭部を「間宮の瀬戸」と地図に記載した。海峡自体はタタール海峡としている。

 日本の国粋主義の高まりの中、日本人の業績を強調する過程で、シーボルトがタタール海峡を「間宮海峡」と記載したかのごとく宣伝され、日本では間宮海峡の名前が定着した。ただし、海外の地図では、海峡自体は「タタール海峡」、最狭部は「ネヴルスコイ海峡」とするものが多い。ネヴルスコイは、ここを最初に近代船舶で通過したロシア人。

 樺太や対岸の沿海州には古来からアイヌ、ニヴフ、ウィルタ、女真(満洲民族)などの民族が居住・往来していので、古くからここに居住していた人たちにとって、樺太が島であることは、よく知られたことだった。
 1804年、長崎に来航したロシアの航海士クルーゼンシュタインは帰途樺太探検を行なったが、海峡通過に失敗した。このとき、海峡に奥深く入るにしたがって、海水の塩分濃度が低下することを確認していたため、ヨーロッパでは樺太は半島ではないかとの議論が起こった。1800年前後に起こった、樺太が「島」であるのか「半島」であるのかの論争に決着を図るため、幕府天文方の高橋景保は、松田伝十郎、間宮林蔵を樺太に派遣した。後年、間宮林蔵の密告によりシーボルト事件が起き、高橋景保は処刑された(獄死ののち、斬首となった)。

 間宮林蔵には、アイヌ女性との間に子供がいたので、明治になってから、間宮の子供は「間宮」姓を名乗ることを求めるも、明治政府はこれを拒否し、かわりに「間見谷」とした。旭川アイヌ協議会長をつとめた間見谷喜昭氏は、間宮林蔵の五代目の子孫である。




間宮林蔵は宗谷岬付近から樺太の渡ったので、宗谷岬・宗谷公園・渡樺地に銅像や記念碑がたてられている。

宗谷岬に立つ銅像 宗谷公園の顕彰碑 稚内市
開基百年記念塔
渡樺地の碑 渡樺地の説明看板




 林蔵の生地、茨城県つくばみらい市には間宮林蔵記念館や林蔵の墓がある。墓は粗末で墓石の文字はほとんど読めない。この墓は、林蔵が蝦夷地にわたるにあたって、自身で生前に建てたもの。ここに、遺骨が納められているわけではない。

間宮林蔵記念館前の像 林蔵の墓(左)
両親の墓(右)
林蔵の墓前の顕彰碑 林蔵の墓の説明看板

実際の墓は、東京都江東区平野2-7-8 本立院墓地にある。

本立院は平野1-14-7にあり、林蔵の墓はそこから東へ350mほど行った平野2丁目交差点のそばにある。林蔵の墓だけがぽつんとある。

最終更新 2016.5.28


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