日露関係ゆかりの地

水戸市の尼港事件記念碑
  

最終更新 2017/1

シベリア出兵と尼港事件
 1918(大正7)年4月、日本は東部シベリア最大の要地ウラディヴォストークに陸戦隊を上陸させて革命軍勢力の拡大を牽制し、連合国に出兵を図った。理由はこの地にある軍需資材が独墺軍に流れることを止め、またボルシェヴィキ勢力の拡大を抑さえるというのであり、その陰にはシベリアにおけるヘゲモニーを握ろうという意図が隠されていた。アメリカは初め出兵に反対したが、チェコ軍救援問題が起こったので7月、共同干渉に同意した。チェコ軍はもとオーストリア・ハンガリーから独立しようとしてロシア軍と合体して戦ったのだが、革命後シベリァを経て太平洋からアメリカ、さらにヨーロッパへ戻ろうとし、1万余りの軍がウラディヴォストークに集結した。ところかチェコ軍はこの間反革命勢力となりソヴィエト政権と戦うようになったので、連合国はこれを援助しようとしたのである。8月2日、日本は出兵宣言を行い、米英仏軍もあいついでいで兵を出した。日本軍は第12師団を送り、8月11日ウラディヴォストークに入港、翌日上陸した。
 はじめの協定は日本軍1万7000人、アメリカ軍7000人、英仏軍5800人というのであったが、日本は独断で増兵し、満州から第7・第3師団を送り込んで、9月までにババロフスク・ブロゴウェシチェンスク・チタ・イルクーツクを占領し、樺太に近いニコラエフスク(尼港)にも陸戦隊を送った。こうして日本軍兵力は7万2000名にも達し、シベリアー帯に勢力を伸ばした。
 アメリカは1920年初めからチェコ軍救出の目的を達したとして撤兵を始めたが、日本は依然駐屯した。そのためソヴィエト民衆の反日感情が高まり、1920年5月には日本軍と日本人居留民が全滅させられる尼港事件も起こったのである。しかし、1921〜22年のワシントン会議でシベリア撤兵問題が取り上げられ、日本も出兵の失敗を認めていたため北樺太を除く地域からの撤兵は22年に実施された。こうして日本は4年間の駐兵10億円を消費し、3万5000名の犠牲者を出して、何ら得るところなく引き揚げるに至った。(高校教科書・詳説日本史 教授資料 山川出版2011.3 P616)

 日本人の殺害はたしかに不当なものであったが、この惨劇の因は日本軍の干渉そのものにあったといえる。(高校教科書・詳説日本史 教授資料 山川出版1992.4 P587) 


 水戸歩兵第2聯隊第3大隊が日本守備隊として当たった関係で、水戸に「尼港殉難者記念碑」が建てられている。場所は茨城県水戸市堀原・堀原運動公園向かいの公園内。



 日本人の殺害はたしかに不当なものであったが、この惨劇の因は日本軍の干渉そのものにあったといえる。(高校教科書・詳説日本史 教授資料 山川出版1992.4 P587)

 記念碑横の解説版では、単に日本人の犠牲のみを書き連ねるばかり。



日露・日ソ関係 ゆかりの地 へ

北方領土問題の先頭ページへ   詳しい北方領土問題の話の先頭ページへ   竹島(独島)問題のページへ   尖閣(釣魚)問題のページへ