薩摩藩の闇支配

薩摩の琉球侵攻

 16世紀中ごろ、日明貿易(勘合貿易)が途絶えると、堺・博多の商人が琉球に来航するようになった。彼らは、薩摩の周辺海域を通行するため、島津氏は海防を名目に、琉球王府に対して島津氏の印判のないものとの貿易を認めないように求めた。多くの日本商船との交易を望んでいた琉球としては、島津氏の要求をすんなりと受け入れるわけにもゆかないため、琉球王府と島津氏との間で対立関係が生まれてきた。

 17世紀に入ったころになると、薩摩・日向・大隅平定以降、九州平定をめぐる戦いや、朝鮮出兵、関が原の戦いと、出費が相次ぎ、財政は破綻状態であり、これを再建する必要や、分散した内部権力を島津家久の元に統合する必要に迫られていた。こうした問題を解決するために、薩摩の奄美出兵が企てられた。幕府は当初、明国を刺激しないため、琉球への派兵には慎重であったが、1606年に島津家久の要求を受け入れた。

 1609年3月初旬、薩摩軍は約3000の兵と100隻の軍船により、琉球に進攻した。鉄砲隊を中心とした薩摩軍は、奄美大島・徳之島・沖永良部島を次々と攻略し、3月25日、沖縄本島北部・運天港に上陸し、27日には今帰仁城を陥落させた。3月29日、読谷に到着した薩摩軍は、陸路と海路から、4月1日には那覇・首里に到着した。琉球軍も抵抗したが、戦国時代を経験し圧倒的な軍事力を持つ薩摩軍を相手になす術もなく、4月5日、琉球国王・尚寧が降伏を申し入れ、首里城は占拠された。5月15日、尚寧以下重職にあった者達は薩摩に連行され、翌年の1610年、島津家久は尚寧をともなって徳川家康・秀忠に謁見した。

 これより前、琉球王府では、1606年に謝名利山が、久米村人として初めて三司官(宰相職)に就任した。通常、久米村人の最高官職は三司官座敷(政治を司る三司官の国議の場に列席して意見を述べる官職)までとなっているので、謝名利山の三司官就任は異例のことだった。
 琉球敗北により、薩摩に連行された国王・三司官らに対し、島津氏は忠誠を誓う誓約書を提出させたが、謝名利山ただ一人、連判を拒否して、薩摩藩により斬首された。なお、謝名利山は薩摩抑留中に、長崎に来航した中国船にひそかに救援依頼したが失敗している。

 薩摩藩は奄美諸島を直轄地としたが、沖縄・八重山は薩摩の支配下で国家として存続することとなった。
 琉球を支配下に置いた島津氏は、さらに掟15条を定め、支配を強固なものとした。掟の第1条には、中国との交易を薩摩が支配することが定められている。
 1612年尚寧が琉球に戻ったことを北京に知らせ、対中国貿易の再開を図るが、明国の解答は、これまで2年に一度だった進貢交易を、今後は十年に一度とするものだった。このため、琉球を介して対中国貿易を図ろうとした、島津氏の目論見は失敗した。
 1623年、明国に冊封を願い出ると、明朝廷は礼官の建議により、暫く五年一貢と定めた。さらに1633年には二年一貢が認められ、朝貢は元に戻った。

 薩摩藩の支配を受けて以降、琉球王は、将軍や琉球王が変わる時には慶賀使・謝恩使を江戸に派遣することが慣習となった。その際の服装は、琉球が異国であることを強調するため、琉球風・中国風のものと決められた。
 琉球侵攻以降、薩摩の支配を受けることになったが、琉球が日本の領土になったわけではなく、琉球王府は従前通り継続し、人事権・裁判権等は、琉球王にあった。また、琉球は、明国を宗主国とする服属国だったため、琉球王就任は、明国(のち清国)の冊封を受けていた。ただし、琉球王家の収納米の3割近くを島津氏へ貢納させられ、1647年からは貢米中に砂糖を含めさせられた。

 琉球が薩摩藩の支配を受けていることは、明・清に対して隠蔽された。薩摩の支配がバレナイため、冊封使が来ると、薩摩の役人達は浦添間切城間村(現浦添市城間)に隠れた。 
 琉球が薩摩藩の支配を受けていることを隠蔽したのは、明・清に対してだけではなく、19世紀になって欧米列強が来琉するようになると、欧米に対しても、隠蔽された。

 2006年東大・日本史の入試問題(問3B)は、この事実に関する設問である。

2006年東京大学 日本史(問3)

 次の文章(1)・(2)は、一八四六年にフランス海軍提督が琉球王府に通商条約締結を求めたときの往復文書の要約である。これらを読み、下記の設問A・Bに答えなさい。
(1)[海軍提督の申し入れ] 北山と南山の王国を中山に併合した尚巴志と、貿易の発展に寄与した尚真との、両王の栄光の時代を思い出されたい。貴国の船はコーチシナ(現在のベトナム)や朝鮮、マラッカでもその姿が見かけられた。あのすばらしい時代はどうなったのか。
(2)[琉球王府の返事] 当国は小さく、穀物や産物も少ないのです。先の明王朝から現在まで、中国の冊封国となり、代々王位を与えられ属国としての義務を果たしています。福建に朝貢に行くときに、必需品のほかに絹などを買い求めます。朝貢品や中国で売るための輸出品は、当国に隣接している日本のトカラ島で買う以外に入手することはできません。その他に米、薪、鉄鍋、綿、茶などがトカラ島の商人によって日本から運ばれ、当国の黒砂糖、酒、それから福建からの商品と交換されています。もし、貴国と友好通商関係を結べば、トカラ島の商人たちは、日本の法律によって来ることが禁じられます。すると朝貢品を納められず、当国は存続できないのです。 (フォルガード『幕末日仏交流記』)

設問
 A 一五世紀に琉球が、海外貿易に積極的に乗り出したのはなぜか。中国との関係をふまえて、二行以内で説明しなさい。
 B トカラ島は実在の「吐喝喇列島」とは別の、架空の島である。こうした架空の話により、琉球王府が隠そうとした国際関係はどのようなものであったか。歴史的経緯を含めて、四行以内で説明しなさい。



贋金

 琉球を支配した薩摩藩は、琉球を介して清国と貿易をすることにより、利益をあげていた。しかし、第28代当主・島津斉彬の時代になると、琉球を介した交易にも行き詰まりが見え、さらに、欧米列強の琉球開国圧力は強まり、それがために、薩摩藩では、かえって経費が必要な事態になってきていた。
 こうしたなか、島津斉彬は贋金を作って藩財政の立て直しを目論んだが、斉彬の時代には、少数の試作品を除いて贋金は作られていない。
 文久2年(1862年)、琉球救済の名目で幕府に申請していた「琉球通宝」の鋳造許可がおりる。琉球通宝は領内限定で通用が認められたものなので、薩摩藩の利益にはなりにくかったため、天保通宝を贋造した。薩英戦争で鋳造所が焼失したのちは、場所を移して再開し、鋳造量も増大した。贋金は秘密裏に作るものなので、公文書などは残っておらず、詳しいことは不明であるが、贋金作りの中心を担った市来四郎の自叙伝によると、贋・天保通宝の鋳造量は290余万両だったとのことなので、1億枚を超える鋳造枚数だったことになる。
 贋金つくりに必要な銅材料の調達には、寺の鐘や仏具も使用された。現在、鹿児島県には古刹がほとんどない。幕末から明治の廃仏毀釈が徹底していたと説明されることが多いが、贋金つくりに鐘や仏具を没収した歴史が、徹底した廃仏毀釈につながっている。
 

琉球通宝 天保通宝
薩摩藩の贋金と思われる
天保通宝
正規に鋳造されたものと思われる

 写真左は琉球通宝。中央は、おそらく薩摩で作られた天保通宝の贋金。右は、幕府が作った本物の天保通宝。薩摩の贋金の天保通宝は、色が黒っぽくて彫りが深いものが多いが、そうでもないこともあり、字体の微妙な違いなどで見分ける必要がある。薩摩は天保通宝の贋金を大量に鋳造したようで、現在、残存数も多い。琉球通宝は多くない。 

 薩摩藩では、偽天保通宝のほかに、慶応元年から、二分金も偽造している。

 薩摩藩の贋金づくりについては、以下の本に詳しい。
 徳永和喜/著 『偽金づくりと明治維新 薩摩藩偽金鋳造人安田轍蔵』 (2010.3)新人物往来社




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