米軍占領統治時代

最終更新 2016.9


 1945年9月2日に日本が無条件降伏し戦争が終結したとき、米軍は、三布告を発令し、日本の通貨の使用を禁止して、米軍軍票を通貨とすることを計画した。しかし、これでは、日本経済は破綻するので、日本政府は、寸前のところで、軍票使用の米軍方針撤回に成功した。
 米軍が直接統治した琉球では、占領当初、日本円と米軍軍票が混在して使用されていた。1948年7月21日からは、日本円の使用が禁止され、米軍軍票が唯一の法定通貨として使用された。米軍軍票には、「B」の記号が書かれていたので、通常「B円」と言う。B円のほかに、「A」の記号が書かれた、通称「A円」も存在し、主に朝鮮などで使用された。B円は、日本本土でも米軍兵士が使った例があり、日本人は、これらの受け取りを拒否できなかったが、日本本土での使用量は少ない。

 B円、A円ともに、100円、20円、10円、5円、1円、50銭、10銭がある。また、琉球では1000円のB円も使用された。

 1958年9月16日〜20日、琉球で使用されていたB円は、すべてドルと交換され、以降、琉球ではドルが通貨となった。この時の交換比率は120B円=1ドルだった。

B円(B記号軍票)

100円 20円
10円 5円
1円 50銭 10銭

A円



琉球の郵便(B円時代)

 琉球の占領統治は、「沖縄」「宮古」「八重山」「奄美」の4地区ごとに行われた。郵便業務も、4地区それぞれ独立しており、使用された切手も4地区ごとに異なっていたが、1948年7月1日に郵便切手は統一され、1949年8月1日に郵便料金も統一された。
 1952年4月1日、4地区は統合し、琉球政府が発足し、郵便行政も統一された。

沖縄地区
 沖縄戦の戦場となり、荒廃した沖縄では、人々は米軍の収容所に住んでいた。安否を知るために郵便の利用が望まれる中、45年9月に郵便が再開された。この時期、貨幣経済は存在せず、あらゆるものが無料だったので、郵便も、1946年6月まで無料で配達されている。7月1日から郵便は有料になったが、切手類は存在せず、別納印で対応した。1947年11月1日、本土から輸入された切手に、通信部長・平田嗣一の認印が押印された切手が発行された。

宮古地区
 宮古島では、戦時中は、空襲や艦砲射撃を受けただけで地上戦は行われなかったが、2600人余りの将兵がマラリアや栄養失調で死亡した。8月26日、現地日本軍を武装解除するため、米軍が進駐した。
 1945年12月8日、進駐してきた米軍によって軍政が敷かれ、宮古支庁を管轄下に置いた。1947年3月21日には宮古民政府が作られた。
 郵便業務では、1945年12月14日に、宮古島局を宮古群島局と改称し、富山常仁が局長を務め、群島内の各局を監督下に置いた。民政府ができると、通信部が作られ、部長には富山常仁があたった。
 宮古地区では、1946年2月に、富山の認印を日本切手に押印した切手が発行された。

八重山地区
 八重山諸島では、戦時中は、空襲や艦砲射撃を受けただけで地上戦は行われなかった。8月29日、現地日本軍を武装解除するため、石垣島に米軍が進駐した。
 1945年12月23日に進駐してきた米軍によって軍政が敷かれた。当初、通信部長は奥平朝親であったが、47年1月15日から宮良賢副に変わった。1947年3月21日には八重山民政府が作られ、通信部長は、引き続き、宮良が担当した。
 47年5月31日以降、日本切手の使用が禁止され、別納印が使用された。48年1月、宮良の認印を日本切手に押印した切手が発行された。 

奄美地区
 奄美諸島では、1945年9月21日に徳之島に進駐、26日に加計呂麻島、30日に奄美大島、10月3日に喜界島に進駐し、日本軍を武装解除した。しかし、このときは日本軍の武装解除が目的であり、行政機構は従来通りだったため、郵便事業も内地と同様だった。 
 1946年1月29日、連合軍最高司令部覚書(SCAPIN-677)で、北緯30度以南の奄美群島が日本から省かれた。名瀬には、沖縄基地司令官兼軍政府長官プライス海軍少将が来航し、奄美の日本からの分離を通告した(二・二宣言)。これにより、奄美は本土から切り離され、本土に本籍を有する官吏は本土送還となり、本土との通航が禁止され、沖縄占領軍の管理下に入ることになった。3月13日に進駐した米軍は、大島支庁内に軍政府を設置し、3月16日より、米海軍の軍政下に置かれた。他の地区では民政府と呼称した行政機構が作られたが、奄美では民政府は作られず、46年10月3日に、大島支庁を改称し、臨時北部南西諸島政庁が作られた。
 奄美の郵政は、米軍進駐まで、大島支庁の管轄外であったが、米軍進駐と共に、大島支庁の管理下になり、名瀬郵便局に管理部が設けられた。
 46年11月1日から、料金収納印および収納印を押した「大島はがき」が使われている。また、47年12月1日からは、日本切手に「検」字を彫った認印を押した切手が使われるようになり、日本切手の使用は禁止された。


1948年7月1日、統一切手が発行され、「平田」「富山」「宮良」「検」を押印した切手は、使用停止になった。


 4地区ごとの郵便料金の変遷を表に記す。

- 書状 葉書
年月日 沖縄 宮古 八重山 奄美 沖縄 宮古 八重山 奄美
終戦以前 10銭 10銭 10銭 10銭 5銭 5銭 5銭 5銭
45.9.4 無料 - - - 無料 - - -
46.4.1 - 30銭 - - - 15銭 - -
46.5.1 - - 20銭 - - - 10銭 -
46.10.1 - - 30銭 - - - 15銭 -
46.7.1 30銭 - - - 10銭 - - -
46.12.10 - - - 30銭 - - - 15銭
47.4.1 - 1円 1.2円 - - 50銭 50銭 -
48.7.1 50銭 2円 1.2円 50銭 15銭 1円 50銭 15銭
49.4.1 - - 2円 - - - 1円 -
49.7.22 - 1円 - - - 50銭 - -
49..8.1 1円 50銭
51.2.1 3円 1円
53.12.2 4円 2円


 本土宛ての郵便料金も、各地で異なっていた。宮古・八重山では、琉球各地宛てと本土宛て料金に違いはなかったが、沖縄・奄美では本土宛て料金の方が高い時もあった。1949年8月1日の料金統一のときに本土宛て料金も統一され、琉球各地宛て郵便料金と同一になった。


統一切手

 1948年7月1日、米軍施政権下の琉球共通の切手を発行した。統一切手の発行に伴い、「平田」「富山」「富良」「検」印が押された切手は、前日の6月30日で発売停止となった。
 下の写真は、この時に発行された切手を1949年ごろから再版したもの。復興に伴い、紙質・目打ちの抜け・裏糊など、初版に比べ、格段に良くなっている。





琉球政府の誕生

 琉球の占領統治は、「沖縄」「宮古」「八重山」「奄美」の4地区ごとに行われた。米国は、民主主義を装うため、4地区ごとに、民選の知事を置いた。米国には知事の決定を無条件で破棄できる権限があったが、それでも、米国の意向に反して、知事が本土復帰を主張することもあり、米国の占領統治が円滑に進まない事態も生じた。このため、1951年4月1日、琉球臨時中央政府が作られ、4地区の知事権限は大幅に削減された。さらに、1952年4月1日、琉球政府が作られ、4地区ごとの行政は終了した。このとき、琉球政府議会(立法院)は民選であったが、行政主席は米国民政府により任命された。
 行政主席の選定方法は、その後、徐々に、立法院の意向を受け入れるようになったが、1968年までは、全て自民党系の人物が行政主席を務めた。1968年11月10日、行政主席は選挙で選ばれることになり、初めて、革新系の屋良朝苗主席が誕生した。

 1952年4月1日、琉球政府創立を記念して、3円切手が発行された。下の写真は、このとき発行された記念切手。



葉書と航空書簡

 1948年7月1日、統一切手発行と同時に、10銭葉書も発行された。しかし、この時、沖縄地区においても、葉書料金は15戦に値上げされており、10銭葉書が適正料金の地域はなく、切手加貼か不足料金別納で対応した。

左:デイゴをデザインした10銭葉書(1948.7.1発行)
右:榕樹をデザインした50銭葉書(1950.1.21発行)
1949.7.18にはデイゴをデザインした15銭葉書が発行された
王冠をデザインした1円葉書
葉書1円時代
日本葉書に料金収納印を押印
航空書簡12円 航空書簡15円



占領統治の時代、沖縄は外国だった

 1952年、沖縄と日本の間で、年賀郵便の取り扱いが始まった。「外国年賀」と朱書(あるいは朱のスタンプ)された。実際には、単に「年賀」と書いたものや、何も書かないものも多い。1957年からは「特別年賀」と改称された。


 左写真は1953年の年賀状。那覇差し出し、門司宛。


奄美の本土復帰

 戦後、奄美地区は沖縄とともに日本から省かれて、米軍が直接占領統治することとなった。
 しかし、奄美地区では、ロシア文学者・昇曙夢らを中心とした本土復帰運動が盛んで、また米軍の戦略的価値も大きくなかったので、米国は、1953年12月25日に奄美群島を日本に返還した。


 左の葉書は昭和28年元旦(1953.1.1)の年賀状。琉球葉書が使われている。



琉球の郵便(ドル時代)

 1958年9月16日〜20日、琉球で使用されていたB円は、すべてドルと交換され、以降、琉球では、ドルが通貨となったため、郵便切手も、急遽、9月16日にドル・セント表示のものが発行された。



急遽発行された切手のデザインは簡便なものだったが、その後発行された琉球切手は、琉球らしい美しいデザイン。

下の切手のうち、上段4枚は、1960.11.1発行された民族舞踊をデザインした普通切手。中段、下段は、ローマ字入りで、1961.9.1-1971.11.1に発行された。
 



下の切手は、琉球の花をデザインした普通切手で、1962.6.1-1971.9.30に発行された。



 通貨がドルになったとき、はがきは、セント表示を加刷して発行され、その後、正刷葉書に変えられた。

左:2円葉書を1.5セントに訂正、中央:正刷1.5セント、右:改定2セント
航空書簡
15円を13セントに訂正
外国郵便用の葉書



本土宛郵便

本土宛郵便料金は琉球内部宛郵便料金と同額であったが、航空の取り扱いをする場合は航空郵便料金を加貼した。

この葉書は、沖縄教職員会会長の喜屋武真栄が、美術評論家の久保貞次郎に差し出したもの。喜屋武は本土復帰後に国会議員を務めている。


琉球政府の選挙

立法院議員選挙
 1952年3月2日、琉球政府創立に先だって、任期2年の立法院(琉球政府議会)議員選挙が行われた。2年後には、第2回立法院議員選挙が行われた。

 下の写真は、第2回立法院議員選挙用に発行された選挙葉書(左)と、その後に行われた、補欠選挙用に発行された選挙葉書(右)。

1954年 第二回立法院議員
選挙葉書
1955年 立法院議員
補欠選挙葉書


 人民党・瀬長亀次郎は、初回、2回共に当選したが、1954年のいわゆる「人民党事件」で、軍政府高等軍事裁判で懲役二年の判決を受けたため、議員を失職した。
 立法院議員を失職した瀬長亀次郎は、1956年12月に行われた那覇市長選挙に出馬し当選。市長就任後、米国は那覇市の琉球銀行口座凍結や、琉球民主党(本土の自民党に相当)に不信任決議を提出させる等の妨害行為を行ったが、いずれも市長追放に成功せず、1957年に米民政府高等弁務官布令143号(通称「瀬長布令」)を発令し、瀬長亀次郎の被選挙権を剥奪し、市長を解職した。
 1967年12月、「瀬長布令」が廃止されたことに伴い、瀬長亀次郎は、1968年11月10日の琉球最後の立法院議員選挙に立候補し当選を果たした。下の写真は、この時、瀬長亀次郎が差し出した選挙葉書。




行政主席選挙
 琉球政府行政主席は、米国民政府による任命から始まり、徐々に、立法院の意向を反映するようになっていった。1968年11月10日には、行政主席選挙がおこなわれ、革新系の屋良朝苗が当選した。下の写真は、この時、屋良朝苗が差し出した選挙葉書。




国政参加選挙
 琉球本土復帰前の1970年11月15日、国政参加選挙が実施された。これは、日本の衆・参両院の議員を選出する選挙だった。衆議院議員には、瀬長亀次郎・安里積千代・上原康助・西銘順治・国場幸昌の5人が当選し、参議院議員には喜屋武真栄・稲嶺一郎が当選した。
 下の写真は、この時、衆議院議員選に立候補した自民党・山川泰邦の選挙葉書。山川は立候補者7人中最下位で落選した。




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